ラテンアメリカ

1978アルゼンチン―Dirty Warと共に

1978年ワールドカップアルゼンチン大会

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写真 アルゼンチンの名物とも言える美しい紙吹雪がスタジアムで舞う・・・。改めて見ると本当にすごい紙吹雪だ。

写真を見ても分かるとおり、スタジアムの観客はまさに熱狂。そして大会は、開催国アルゼンチンの優勝で幕を閉じ、形の上では成功した大会となった。

しかしアルゼンチン優勝までの軌跡を見てみると、かなり怪しいものがたくさんある。この大会には16カ国が参加。4カ国ずつ4グループに分かれ、グループリーグ上位2チームの合計8チームが二次リーグに進出。
二次リーグで8チームをさらに2グループに分け、それぞれのグループの一位が決勝戦を戦い、二位のチームが3位決定戦を戦うというシステムだった。
(詳しい組み合わせなどはWikipediaのこのサイトを参照。)

二次リーグでブラジルとアルゼンチンは同じ組(グループ2)に入る。2試合終わった時点でブラジルとアルゼンチン両チームとも1勝1分。

そして迎えた3試合目。今だったら同時刻に開催される2試合だがこの時は、ブラジルの試合が終わった後にアルゼンチンの試合が組み込まれていた。アルゼンチンにとって重要な試合なだけにこういう組み合わせになった。

その二次リーグの3試合目、ブラジルはポーランドを3対1で一蹴する。その結果、アルゼンチンはペルー戦で4点差以上をつけて勝たないと決勝進出が出来ないという事になった。この時のペルーは結構いいチームだったのだが、アルゼンチンはそのペルーを6対0で一蹴。この時のペルー代表のGKのキロガという選手はアルゼンチン生まれだったりした事もあり、この結果に今でも怒っているブラジル人は結構いるらしい。この大会の頃のブラジルのスター選手だったリベリーノは、今でも怒っているらしい。
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1976年3月、アルゼンチンのペロン政権(当時の大統領はイザベル・ペロン大統領。有名なフアン・ドミンゴ・ペロン元大統領の3番目の夫人)は軍事政権のクーデターによって倒される。そして、ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が軍事評議会議長(事実上の大統領)に就任。8月には正式に大統領へと就任する。

ビデラは1976年3月の就任演説において、産業評議会(CGE)、労働評議会(CGT)への軍の介入、そしてスト権の停止を布告。さらに革命的共産党,労働社会党など五つの極左政党を禁止した。そして同年7月、ついに左翼絶滅作戦の展開が始まる。ここからアルゼンチンのいわゆるDirty Warが始まる。アルゼンチン政府の弾圧の度合いは本当にひどいものだった。1976年から83年までの間に、アルゼンチン国内の死者・行方不明者は3万人を越えると言われている。3万人のうちのほとんどが1976年から79年の間に行方不明となっている。そして1978年にワールドカップが開催されている。

この頃のアルゼンチンは、内戦状態にあったわけではない。アルゼンチンで起こったことは内戦ではなく、国の政府による国家テロだ。自国の人間を何万人も連れ去り殺していたような国でワールドカップが開かれたのだ。

ヨーロッパなどから人権侵害国家として悪いイメージが定着しつつあったアルゼンチンにおいてワールドカップの成功はイメージ回復のためにも、軍事政権の至上命題だった。アルゼンチン政府はこの大会の成功のために全力を挙げた。結果、マリオ・ケンペスやオズワルド・アルディレスなどの活躍によりアルゼンチンが優勝。人権侵害の甚だしい政府のもとで開かれたこの大会は形の上で成功を収めた。

1978年のワールドカップが開かれたとき、左派勢力はこの大会を通じてアルゼンチン政府の愚行を世界に気付いてもらおうとした。しかし、そのアピール行動も風前の灯火。アルゼンチンの人権弾圧政権はこの後、さらに5年間続く事になる。

Night of the Pencils(Noche de los Lapices)という映画があって、この映画はこの時代のアルゼンチンを舞台として描かれている。この時代のアルゼンチン情勢を理解する上で非常にいい映画だと思う。

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1978年大会、決勝はアルゼンチン対オランダ。

ホスト国アルゼンチンが前回大会準優勝のオランダを迎え撃つという戦いになった。オランダは、クライフがビデラ軍事政権に対する抗議のため大会参加を拒否。(実のところは、1974年のワールドカップ決勝で敗れたクライフはもう二度と決勝での負けを味わいたくなかったらしいという説もある。)何はともあれ、このときのクライフは、女王陛下からの出場嘆願も振り切ったという有名な話まである。

大会前からアルゼンチンの軍事態勢に批判の意を表明していたオランダ。
決勝での対決に注目が集まった。

宿泊ホテルの電話が深夜まで鳴り止まないなどの、オランダに対しての嫌がらせによる妨害が行われたという説もある。さらに、アルゼンチン選手団はなんと決勝の開始予定時刻に堂々と遅刻をした。オランダの選手はフィールドの上で何十分と待ちぼうけを食った。

こんな妨害行為などにもめげずにオランダはアルゼンチンにくらいつく。ケンペスの先制ゴールを奪われるものの、終了間際にヘディングで同点に追いつく。延長で力尽きたものの、ホスト国相手に堂々わたりあった戦いだったといわれている。チャンスがあれば一度ビデオか何かでこの試合を見てみたいと思う。

ラテンアメリカ オリンピックと平和

今日は、体育の日なのでオリンピックなどについて。

皆さんの中で「オリンピック」の定義は何ですか?
「スポーツの祭典」
「平和の祭典」
「国威発揚のためのイベント」
などなどいろいろな意見がある事だと思う。

そして皆さんの中でのサッカーのワールドカップの定義とは何でしょう?
「オリンピックを上回る規模の大会」
「世界中が熱狂する大会」
などなど、これもまたいろんな意見があると思う。

オリンピックやワールドカップなどの見方や定義の仕方は人それぞれだろうけれど、我々の認識としてある程度共通しているものは、「オリンピックやワールドカップと言った大規模なイベントは、紛争などのない平和な地域で行われるもの」というアイディアがあるのではないでしょうか。

しかし、これらの大会が全く平和じゃない地域で開かれたという事だって、実は結構あるのだ。多少の政治的・経済的混乱のある国とかではない。それこそ内戦、暴動、抑圧、虐待などによって人がバッタバッタと死んでいっているその真っ只中でオリンピックが開かれたりした歴史が1960年以降にだってあるのだ。

さてここで問題。それはどこの国で開かれた大会でしょう?

答えは・・・

1968年 メキシコオリンピック
1978年 ワールドカップアルゼンチン大会


この二つだ。
では具体的にメキシコで、そしてアルゼンチンではどんな出来事があったのだろうか。今回はそのことについて。
長くなるので、今回はメキシコオリンピックに関して書いて、次回はワールドカップアルゼンチン大会について書きます。

(オリンピック史上最大の悲劇とも言われるあまりにも有名な1972年のミュンヘンオリンピック事件については、大会期間中に起こったテロであり、「元々平和でない国で開かれたオリンピック」という今回の記事の趣旨に合わないので、今回は割愛します。リンクと映画『ミュンヘン』などを参照されたい。)


まずは1968年メキシコ。

10月12日に開幕するメキシコ五輪に先立ち、10月2日にメキシコ市のトラテロルコ地区にある三文化広場(La Plaza de las Tres Culturas)で事件が起こる。アステカ時代に市場として栄えたこの場所での事件はあまりにも凄惨なものだった。いわゆるトラテロルコ事件だ。

簡単に言ってしまえば、ここで開かれていたきわめて平和的な学生集会を、軍が襲撃したのだ。当局の発表では犠牲者の数は30人未満だったが、本当は500人ほどが死んだのではないかと言われている。
(この事件につながるまでのメキシコの歴史などを語りだすとキリがないので今回はそれは割愛させていただくことにする。)

トラテロルコの夜という本に詳しい記述が書いてある。序文は、1990年にノーベル文学賞を受賞したオクタビオ・パス(Octavio Paz)によって書かれている。

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また、この本のバックカバーにあるオクタビオ・パスの言葉を引用する。

1968年の学生運動と、それを突如として終わらせた、政府による凄惨な弾圧――トラテロルコ事件――は、メキシコの人々を深く動揺させた。その結果生じた政治的、社会的、倫理的危機はいまだに解かれてはいない。(注:これは今から10年以上前に書かれた文章であることを付記しておく)

オクタビオ・パスの見解などは藤原書店のこのページに結構詳しく書かれている。

38年も前に起きたこの事件のことで今のメキシコ政府を非難するつもりなどまったくないし、IOCのオリンピック開催地の選考過程などにケチをつける気も全然ない。だけど、オリンピックの直前にこんな事件があったということは知っておいてもいい事実だと思うのだ。オリンピック開幕のたった10日前にこんな事件が起こっているのだ。自国民をバタバタ殺すような政府のもとでオリンピックが開かれたというこの事実は、日本ではあまり知られていない事だが、決して知っておいて損はないと思う。

「トラテロルコの夜」の中からいくつか印象的なものを引用してみる。

残忍、野卑、憎悪、ありとあらゆる悪意に満ちた行動に支配されてしまった、トラテロルコのあの夜。あのときの驚愕と憤怒を正しく記録にとどめておく必要がある。
フランシスコ・マルティネス=デラベガ「我々の国はどこへ向かうのか」
『エル・ディア』紙 1968年10月8日

オリンピックを開催できるようにと学生が殺されているのなら、オリンピックなど行われない方がましだ。どんなオリンピックも、歴代のオリンピックを合わせても、学生一人の命には値しないのだから。
イタリア人陸上競技選手(第19回オリンピック大会イタリア代表選手メンバー)『オバシネス』紙、1968年10月3日

何もかも丹精こめて準備がなされた。巨額のお金が使われた。どんな細部も手抜きされることはなかった。各競技の入場券にも趣味のよさが光っている。案内板、パンフレットやプログラム、ポスター、エスコート役のスーツや広告、果ては風船に至るまでのでデザイン。各協議の実施時間の厳密さ、絶妙の運営組織、だからこそ残念でならないんです。第19回オリンピックが血に染まっていることが無念でなりません。
ベアトリス・コジェ=コルクエラ
(グラフィック・アート専門家・図案デザイナー)

映像は人を欺けないと思います・・・・私はニュース報道も写真も見ました・・・・
オクタビオ・パス

みんな死骸ですぜ・・・・
『エル・ディア紙記者、ホセ=アントニオ・デルカンポに対する、ある兵士の呟き

1964年の東京の次に開かれたメキシコオリンピック。
日本では1968年のオリンピックと言えばサッカーでの銅メダル、マラソンの君原健二の銀メダル、加藤沢男などが体操ニッポンのちからを見せ付けた男子体操などが語り継がれている。

その大会の直前にあったトラテロルコ事件。単なるウンチクとしてではなく、我々が知っておくべき事件の一つなのではないかと思う。

ドミニカ共和国日本人移民 2

昨日の続き。

昨日アップした外務省の愚行。それを愚行と思うか否かは個人の価値観の問題になってきてしまうのかも知れないが、僕は個人的に外務省がドミニカ移民に対してとってきた行動は愚行以外の何者でもないと思う。

しかし移民たちが国を相手取って戦った裁判の結果、原告の請求は棄却された。時間が経ち過ぎていたのが大きな理由なようだ。

詳しい結果はこちら(200ページに及ぶ判決文)から。

弁護団声明はこちら、さらにもう一つこちらから。

弁護団声明によると、

同判決は、当時の外務大臣らについて国策移住の公務遂行上の義務違反と国
賠法上の損害賠償責任の発生を認めましたが、入植以来20年の期間が経過し
たことで請求権は消滅したという理由で、結論として、原告らの請求を棄却し
ました。


小泉総理は、「裁判の内容では明らかに国が負けている、国側の実質的な敗訴だ」と発言。その流れで、小泉総理は謝罪をした。しかしどこまでも愚かな外務省はそれでも、「総理の見解は法的なものではない」とし、どこまでも責任を逃れようとしている。このまま外務省のなぁなぁな言い訳を許し、この出来事を風化させてしまうような事がないようにしていきたいと思う。

7月30日付けの毎日新聞から
【サントドミンゴ庭田学】カリブ海のドミニカ共和国で29日に開かれた「ドミニカ日本人移住50周年記念祭」で、小泉純一郎首相の特使として首相メッセージを移住者に読み上げた尾辻秀久前厚生労働相は過去の経緯を深々と謝罪し、出席者から大きな拍手を浴びた。

 尾辻氏はこれまでの政治活動の中でドミニカ移民問題に強い関心を持ち、訴訟では原告団を支援してきた。あいさつでは「私はこれまで政府に土下座して謝れと言い続けてきた。私はここで土下座すべきだが、土下座は首相特使として勝手にやれる範囲を超えている」と複雑な立場を説明した後、「土下座のつもりでおわびをします」と言うと突然壇上から降り、深々と何度も頭を下げた。出席者は立ち上がって大きな拍手をした。

 嶽釜(たけがま)徹・記念祭執行委員長は「これまで政府に土下座しろと言い続けてきた尾辻さんは、立場が逆になり、土下座しないことには自分としても納得できないし、移住者も認めてくれないと思ったのだろう。あのような態度を取ることは簡単ではない。感動した」と語った。

2_20060731k0000m040027002c.jpgドミニカ日本人移住50周年記念祭で、壇上から降り移住者に深々と頭を下げ謝罪する尾辻秀久首相特使=サントドミンゴのホテルで29日午前11時43分、庭田学写す









写真下:ボリビアの日系人との飲み会。2005年7月ボリビアのサンタクルスにて。左から3番目の青いTシャツを着てるのが僕で、それ以外は全員日系人です。
ボリビアの日本人移住地サンフアンとオキナワはいわゆる成功した移住地と言っていいだろう。しかし50年前、彼らの祖父母が入植した時代には想像しえぬ程の苦労があったといわれる。本当に何一つなかった、道路さえもなかったジャングルを切り開いてそこを一つの町にしたのだから。
遅まきながらJICAなどの補助金と融資があったこともあるのだが、この移住地が成功し現在もそれが保たれている最大の理由は、彼らの祖父母や両親そして彼ら自身の努力の賜物というべきだと思う。

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昨日、今日と非常に長々と移民の話を書きましたが、移民に興味のある方は僕が過去に書いた『アメリカ大陸の日系移民』『ハルとナツ 移民を描いたドラマ』なども参考にしてください。

昨日、今日の長ったらしいエントリーを全部読んでくれたあなたは偉い。

ドミニカ共和国日本人移民

戦前、満州などを中心とする外地への移民政策(この場合は移民というよりも外地へ余剰人口を外地に送り出したというほうが正確ではある。)を奨励していた日本。
戦後は国が中心となり南米を主とした移住政策を展開する。戦争により多くの植民地を失い経済的にもほぼ破綻していた日本国家。さらには国土狭小、人口過多。膨れ上がる人口を経済的に受け入れる余裕がなかった日本は移民政策を奨励していたわけだ。

こういった背景から始まった戦後移住政策は、

大農場主になれる夢を持たせて約6万7千人の日本人を南米中心に送り出した。ところが政府が設定した移住先は、貧しい国から豊かな国へ流れる移民の大原則に反し、文明社会から隔絶された厳しい気候の辺境の地だった。中でも自衛開拓移民として原始林に棄てられ、孤立無援の最も過酷な状況に置かれた日本人は、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン、ドミニカ(共和国)、ボリビアの5カ国一万六千人にも上る。高度経済成長の到来とともに、移民、移住は企業の海外進出とすり替えられ、本国の記憶から抹消されてしまった。
(太字部分:若槻泰雄 『外務省が消した日本人』毎日新聞社 2001年 から抜粋) 

ここ数ヶ月、あまり大きくは報道されて来なかったが、ドミニカ移民問題というのがしばしば報道されてきた。

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ちょっと休憩and解説

ドミニカ共和国ドミニカ国というのは違う国だというのをご存知でしたか?ドミニカ共和国は、サミー・ソーサ、マニー・ラミレス、ペドロ・マルティネス、アルフォンソ・ソリアーノなどの有名なメジャーリーガーを輩出している国であり、人口も約900万人。比較的、国際的プレゼンスが高い国だと言っていいでしょう。それに対して、ドミニカ国は同じくカリブ海の国ですが、こちらは面積わずか約754平方キロメートル、(東京23区は621平方キロメートル)人口はわずか7万人ほどの小国です。ちなみに公用語は、ドミニカ共和国はスペイン語、ドミニカ国は英語です。

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ドミニカ移民問題というのは、要するにドミニカ共和国への日本人移民は日本政府によって捨てられた棄民なのか否かというところ。そして果たして日本政府は本当に移民として旅発っていった日本人たちをだましたのかということ。
政府がその責任を認めるのならば、その責任をどのように国が負うべきなのかという問題だ。それについて、ここ数年ずっと裁判が行われてきた

国が移民たちを騙したのか否かについては、どんなに公平な目で見たとしても「騙した」というしかないであろう。騙したという言葉が少し強烈過ぎるとしたならば、「国に非があったために移民たちが絶句するほどの苦労を味わった」としてもいい。それはもはや厳然だる事実以外の何者でもないと思う。

少しでも興味があるならばどうかこのリンクを覗いてみてほしい。
このリンク先の最初の項目にある「約束の農地」。
日本とドミニカ共和国の移民協定で定められた約束は「一戸あたり“最大”で18ヘクタールを支給する。」となっていた。
ところが日本政府が移民を募集した時の要項には、「ドミニカ共和国に行けば分け隔てなく一戸あたり18ヘクタールが与えられる」とした。
また、ドミニカ共和国の農務省などが移住地の準備が整わず、日本に移民の渡航を先延ばしにしてくれと伝達してきた。それにもかかわらず、「移民を送り出した」 という実績がほしかっただけの日本外務省はそれを無視。移住者たちが移住地に移った後の生活などは考えずにただただ移民を送り出すことに専心していたことがよく伺える。

また、先ほどのリンクの6番に是非注目してほしい。JICAがサラ金さながらの借金取立てをしているというこの事実。国際協力、国際発展などを目指す学生などから、時としてJICAは神格化された存在のように扱われてしまうことがあるが、こういう事実もあるということを是非知ってほしいと思う。JICAを批判しまくれとは思わないけれど、これは知っておいていい側面だと思う。

ドミニカ共和国へは、1956年7月の第一陣に続き次から次へと移民が送り込まれ結果的に入植した日本人の数は249家族、1319名に上った。約束よりもはるかに少ない農地、さらに耕しても耕しても塩か石ころしか出て来ないような場所で想像を絶するような生活を送り続けてた移民たち。1961年、追い討ちをかけるようにドミニカ共和国のラファエル・トルヒーヨ大統領が暗殺されたことにより、政局は大いに混乱する。その煽りを受け、移民たちの生活は更なる混乱を極める事となった。

ここからは日系ビジネス7月31日号、ドミニカ日系人協会会長の嶽釜徹氏の寄稿から抜粋。

ドミニカでは61年にトルヒーヨ大統領が暗殺されて、政情が不安定になりました。これを理由に国は移住者を別国に移民させるか、日本に帰還させる政策をとりました。だけど国は正常不安を理由につけて、自分らの募集要項の不履行についてはなかったことにしようとしたのです。そして日本に帰りたい人は帰します、再度中南米に移住したい人はどうぞ、残りたい人はどうぞご自由に。こうやったわけです。
しかし財産を処分して国を出た我々に「どうぞ」と言われても簡単には帰れません。ですから我々は大使館と募集要項の履行を求めて地道に交渉しました。しかし大使館に行けば、「日本の大使は天皇の名代ですよ、あなた方が会えるものじゃない」と玄関払いです。


ここまで書いてきた話を簡単にしてしまうとこうなる。

日本外務省の移民募集要項 ――
狭い日本を抜け出して、カリブのパラダイスへ!美しいドミニカ共和国へ!
一戸あたり18ヘクタールの素晴らしい農地が割り当てられます!
準備万端のドミニカ共和国はあなたたちを待っている。

貧困を抜け出すため、または大農場主になることを夢見て、多くの人々がこの募集に飛びついた。故国日本を捨てる覚悟を決め、有り金を全部これからのおドミニカでの生活に注ごうと言う人が集まった。

ところが行ってみれば上記のようなひどい状況。生きるか死ぬかの瀬戸際。絶望のあまり自殺に追い込まれた人は10名を超えると言われる。外務省が定めた契約の履行は全くなされず。
加えて、1961年の大統領暗殺による政情不安。

大統領暗殺という政局の混乱に伴う日本人の暮らしのあまりの極限状態にさすがの外務省も事の重大さに気づき、渡航費をもつから帰りたい人にはどうぞ帰ってきてくださいと確かに外務省は言ったようだ。しかし問題は、その後日本に戻った人たちにもドミニカに残った移民たちにも、日本外務省が何一つしてあげなかったこと。

帰りたいのなら帰りなさい、残りたいのなら残りなさい。そういっておいて、後は何もしなかったのだ。

5年間という時間を生死をさまよいながら生きたような人々。それは明らかに外務省に非がある。その非を全く認めようとせず、後から起こった政情不安を理由に、契約不履行の責任を逃れようとした。これはもう否定のしようがない事実なわけだ。

ここで、やってはいけないことかも知れないけれど、特定の個人と省庁を叩かせていただく。その特定の人物は、外務省領事局政策化上席専門館の柴崎二郎氏であり、特定の省庁とは外務省だ。この人たちは少なくともこの問題において、大いなる嘘つきだ。日系ビジネスというビジネス誌の中で大きな嘘をつき、さらには誰も受け入れられないような言い訳を書いたのだ。
柴崎氏も、外務省の立場からモノを書いたのだろうが、良心があればこんな書き方は出来ないはずだと思う。

日系ビジネス2006年7月31日号の120項 柴崎二郎氏の文章

ラファエル・トルヒーヨ大統領が1961年に暗殺され、ドミニカ全体が混乱したときも対応しました。移住者に対してドミニカからの移住を勧めました。結果、133世帯が日本に戻り、70世帯が他国に移住しました。ドミニカに残ったのは47世帯だけでした。日本への帰国費用は政府が持ちました。帰国後、就職の斡旋も行っています。

「大使館は何もしてくれないじゃないか」と言われます。そうした感情を持たせてしまったことは、我々にも責任があるかもしれません。至らない点も多かったでしょうが、話し合わなければ、先には進めないことも分かってもらいたいですね。


前半部分。確かに外務省は日本に戻ることを希望した人々の帰国費用を支払った。しかし、パラダイスを信じて全財産をはたいてドミニカに渡った人々を、あすの食い物も命も分からない状況に人を5年間も追い込んでおいて「帰国費用を持ちました。」はないだろう。彼らの5年間をどうするつもりなのだ。

しかも、帰国した人の就職の斡旋などは断じて行っていない。そういう例は数例あったのかも知れないが、帰国移民の口から「就職の斡旋を外務省にやってもらいました」という声は全く聞かれないのだ。第一、補償も賠償も行わずに就職の斡旋を行っただけで外務省の罪が償われるとでも思っているのだろうか。担保とするものも何もなかった帰国移民たちは金融機関などからも冷遇され、日本の生活の基盤を再構築するすべが何も与えられなかった。さらに外務省は、日本に帰国したドミニカ移民たちが、一枚岩となって外務省に抗議の声をあげることを恐れたのだ。だから、移民たちをそれぞれの故郷に手っ取り早く送り返して彼らの団結を封じた。

そんな事実に全く触れずに「帰国費用は持ちましたし、就職の斡旋もしました。」などと言い逃れをしようとするのは言語道断と言っていいだろう。

柴崎氏のコメントの後半部分は、嗚呼もう聞くに堪えない。あまりにも官僚くさい言い訳。話し合いは確かに大事かも知れないが、彼らはレイプしても殺人しても「至らぬ部分もあったかもしれない。話し合おうじゃないか。」などというのだろうか。

ドミニカに残った人々に関しては完全に無視をした挙句、彼が外務省に何を言っても取り合わなかった。貧困と恐怖にあえぐ自国の民、しかも自分たちが募集してわざわざ送りだした自国の民を、まったく救おうとしなかったのだ。

続く

スペインの南米征服

おそらく皆さんご存知のように、ラテンアメリカ諸国の大半ではスペイン語がしゃべられている。それがなぜかと言うと、当然だけど、スペインがこの広大な地域を15世紀から19世紀にかけて征服したからだ。

前回予告したとおり、これほどまでに広大な地域をスペインがどのように征服して行ったのか、その歴史などについて今日は少しだけ語ってみようと思う。これを詳しくやろうと思ったら一つの長い論文になってしまうのである程度かいつまんでいきます。

ラテンアメリカには1492年10月にコロンブスが到着するはるか以前から、大規模な文明圏が形成されていたが、これが1492年以降ものすごいスピードでスペイン人によって征服されていく。何しろ1492年から1550年までのたった60年ほどの間にブラジル、ハイチをのぞいたほぼすべてのラテンアメリカの国々を征服してしまったのだ。

スペイン人による征服は、カリブ海地域に始まり、現在のメキシコを中心に栄えたアステカ帝国、そして現在のペルーを中心に栄えたインカ帝国の征服から本格化していく。本格化した後は、まさに人類史上例を見ないほどのスピードで広大な地域を征服していった。そのスピードもすごいが、その地域の巨大さもすごい。近世以降、一つの国がこれほどまでの影響を昔の領土に残している例は他に見当たらない。

メキシコに栄えたアステカに関してはアステカ族に対抗する勢力をうまく利用してエルナン・コルテスをはじめとするスペイン人たちが征服を達成。そしてインカについてはその内部抗争利用して同じくスペイン人フランシスコ・ピサロとかれの部隊がその征服の意図を達成した。

しかしまた先住民に対する残忍なまでな酷使、そして略奪・殺戮もまた人類史上まれに見るほどのものであった。先住民の文化、文明、生活、暮らしは、原住民の教化と富の獲得と言う目的のために、ことごとく破壊された。特に、最初にスペイン人が上陸したカリブ海地域の先住民は絶滅の危機にまで瀕した。そこで労働力の補充として、アフリカからの奴隷が大量に導入された。ドミニカ共和国、キューバと言ったカリブ海地域が南米大陸のスペイン語圏の国に比べて黒人の比率が高くなっているのはこのためである。

カリブで一番の犠牲を払わなくてはならなかった民族の一つは、カリブ海島嶼部に広く住んでいたタイノ族と呼ばれる民族だった。「エンコミエンダ」と呼ばれる制度によってスペインの支配下に置かれた彼らの悲惨な歴史を少しだけ説明する。

エンコミエンダという制度の元では、辺境の新征服地の原住民や土地の用益権をスペイン国王が征服者に委託し、原住民の保護・教化・職業訓練などを義務づけた。彼らは管轄内のインディオたちを外敵から保護すること、キリスト教への改宗などに関して責任を負う代わりに、私的に貢納・賦役を課することを認められた。ちなみにキリスト教への改宗の目的は、新大陸支配をローマに認めてもらうためだった。

スペイン国王が、先住民をあさましき新大陸のスペイン人たちに預けてしまったことが、そもそもこの制度の間違いだったように思う。エンコミエンダという制度は単なる奴隷制度へと転落していく。

この制度のもと、征服者はインディオたちを酷使しまくる。さらに、スペイン人は「インディオ達は怠惰である。」と考えていた。さらに、インディオたちはキリスト教によって救われることもなく、だから、労働をさせて文明的な生活を身につけさせるべきなのだ、と考えていた。ものすごく自分勝手な理論である。

そういう考えの元、金鉱のあったエスパニョーラ島(現在のハイチ・ドミニカ共和国のある島)、またはポトシ銀山(現在のボリビア)などの労働力不足を補うため、スペイン人たちはエンコミエンダの権利を行使し、カリブ海の多くの島々からタイノ人を連れ帰り金鉱で酷使してその多くの命を奪ったのである。またヨーロッパから持ち込まれた天然痘を代表とする様々な疫病によっても数多くのタイノ人が命を失った。こうした労働力の不足をスペイン人たちはすぐさま周辺地域やアフリカからの奴隷でおぎなった。

エスパニョーラ島では、もともと300万人いたといわれたインディオのほとんどがわずか20年の間にほぼ全滅。つれてこられたタイノ族やその他のインディオも絶滅状態。このサイトにエスパニョ―ラ島の惨劇に関するなかなか面白い記事が載っている。
また、ポトシ銀山で採掘された銀には面白いストーリーがある。ヨーロッパに大量に銀が輸出されたことにより、ヨーロッパでは価格革命が起きた。さらにこの銀は遠くアジアにまで流出し、中国では一条鞭法などが制定され税金も銀で納められるようになった。

こうして征服者の気の赴くままにインディオを酷使させる元となったエンコミエンダ制。16世紀の半ば以降、いよいよスペイン王室はこの制度の普及による王権の弱体化を恐れだした。そして、エンコミエンダを骨抜きにするおふれを次々に出し、エンコミエンダの衰退を狙った。エンコミエンダという制度自体は16世紀の間に衰えていったが、16世紀後半に入って征服者(支配者)の多くはエンコミエンダに代わる制度としてアシエンダ経営に乗り出す。これは一人のパトロン(主人)が広大な土地(それこそ日本でいう東京23区より大きいドでかい土地もたくさんあった)を所有し、多くの小作農民を使って耕作させるというものだ。こうした巨大な農場経営の横で先住民がわずかな土地を耕す、そうした構造は今日までラテンアメリカ農業に残っている。 僕の身近な例を挙げると、僕の知り合いのボリビアの超富裕層の家は、ものすごい面積の土地をもっているらしい。

これを見てみるとスペイン王室がエンコミエンダを骨抜きにしようとしたことも大して意味がなかったように見える。

ちなみに、かつてE.ウルフとS.ミンツという学者が、アシエンダの定義を提示した。それによると、アシエンダとは少ない資本で労働力を隷属的に用いて小規模な市場向け生産をおこなう農場である。そこでの生産諸要素は資本蓄積のためだけでなく、地主のステイタスに対する欲望を満足させるためにも使われる。

めちゃくちゃ長くなりそうな気がするので、ここらへんで切り上げるが、結局何が言いたいかと言うと、「スペイン人たちは勝手極まりない理論の元、ラテンアメリカを征服していった」ということである。北米でもアフリカでも、征服者というのは勝手極まりないものだが、人間というのはそもそもこのように勝手なものなのかもしれない。こういう身勝手な行動を世界の歴史で繰り返さないためにも、歴史を学ぶことは重要だなぁと思うのでした。

今日のこのブログの記事は気合入れて数日がかりで書きました。
いつになく真面目一本やりな記事でした。
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