1978年ワールドカップアルゼンチン大会


写真 アルゼンチンの名物とも言える美しい紙吹雪がスタジアムで舞う・・・。改めて見ると本当にすごい紙吹雪だ。
写真を見ても分かるとおり、スタジアムの観客はまさに熱狂。そして大会は、開催国アルゼンチンの優勝で幕を閉じ、形の上では成功した大会となった。
しかしアルゼンチン優勝までの軌跡を見てみると、かなり怪しいものがたくさんある。この大会には16カ国が参加。4カ国ずつ4グループに分かれ、グループリーグ上位2チームの合計8チームが二次リーグに進出。
二次リーグで8チームをさらに2グループに分け、それぞれのグループの一位が決勝戦を戦い、二位のチームが3位決定戦を戦うというシステムだった。
(詳しい組み合わせなどはWikipediaのこのサイトを参照。)
二次リーグでブラジルとアルゼンチンは同じ組(グループ2)に入る。2試合終わった時点でブラジルとアルゼンチン両チームとも1勝1分。
そして迎えた3試合目。今だったら同時刻に開催される2試合だがこの時は、ブラジルの試合が終わった後にアルゼンチンの試合が組み込まれていた。アルゼンチンにとって重要な試合なだけにこういう組み合わせになった。
その二次リーグの3試合目、ブラジルはポーランドを3対1で一蹴する。その結果、アルゼンチンはペルー戦で4点差以上をつけて勝たないと決勝進出が出来ないという事になった。この時のペルーは結構いいチームだったのだが、アルゼンチンはそのペルーを6対0で一蹴。この時のペルー代表のGKのキロガという選手はアルゼンチン生まれだったりした事もあり、この結果に今でも怒っているブラジル人は結構いるらしい。この大会の頃のブラジルのスター選手だったリベリーノは、今でも怒っているらしい。
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1976年3月、アルゼンチンのペロン政権(当時の大統領はイザベル・ペロン大統領。有名なフアン・ドミンゴ・ペロン元大統領の3番目の夫人)は軍事政権のクーデターによって倒される。そして、ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が軍事評議会議長(事実上の大統領)に就任。8月には正式に大統領へと就任する。
ビデラは1976年3月の就任演説において、産業評議会(CGE)、労働評議会(CGT)への軍の介入、そしてスト権の停止を布告。さらに革命的共産党,労働社会党など五つの極左政党を禁止した。そして同年7月、ついに左翼絶滅作戦の展開が始まる。ここからアルゼンチンのいわゆるDirty Warが始まる。アルゼンチン政府の弾圧の度合いは本当にひどいものだった。1976年から83年までの間に、アルゼンチン国内の死者・行方不明者は3万人を越えると言われている。3万人のうちのほとんどが1976年から79年の間に行方不明となっている。そして1978年にワールドカップが開催されている。
この頃のアルゼンチンは、内戦状態にあったわけではない。アルゼンチンで起こったことは内戦ではなく、国の政府による国家テロだ。自国の人間を何万人も連れ去り殺していたような国でワールドカップが開かれたのだ。
ヨーロッパなどから人権侵害国家として悪いイメージが定着しつつあったアルゼンチンにおいてワールドカップの成功はイメージ回復のためにも、軍事政権の至上命題だった。アルゼンチン政府はこの大会の成功のために全力を挙げた。結果、マリオ・ケンペスやオズワルド・アルディレスなどの活躍によりアルゼンチンが優勝。人権侵害の甚だしい政府のもとで開かれたこの大会は形の上で成功を収めた。
1978年のワールドカップが開かれたとき、左派勢力はこの大会を通じてアルゼンチン政府の愚行を世界に気付いてもらおうとした。しかし、そのアピール行動も風前の灯火。アルゼンチンの人権弾圧政権はこの後、さらに5年間続く事になる。
Night of the Pencils(Noche de los Lapices)という映画があって、この映画はこの時代のアルゼンチンを舞台として描かれている。この時代のアルゼンチン情勢を理解する上で非常にいい映画だと思う。
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1978年大会、決勝はアルゼンチン対オランダ。
ホスト国アルゼンチンが前回大会準優勝のオランダを迎え撃つという戦いになった。オランダは、クライフがビデラ軍事政権に対する抗議のため大会参加を拒否。(実のところは、1974年のワールドカップ決勝で敗れたクライフはもう二度と決勝での負けを味わいたくなかったらしいという説もある。)何はともあれ、このときのクライフは、女王陛下からの出場嘆願も振り切ったという有名な話まである。
大会前からアルゼンチンの軍事態勢に批判の意を表明していたオランダ。
決勝での対決に注目が集まった。
宿泊ホテルの電話が深夜まで鳴り止まないなどの、オランダに対しての嫌がらせによる妨害が行われたという説もある。さらに、アルゼンチン選手団はなんと決勝の開始予定時刻に堂々と遅刻をした。オランダの選手はフィールドの上で何十分と待ちぼうけを食った。
こんな妨害行為などにもめげずにオランダはアルゼンチンにくらいつく。ケンペスの先制ゴールを奪われるものの、終了間際にヘディングで同点に追いつく。延長で力尽きたものの、ホスト国相手に堂々わたりあった戦いだったといわれている。チャンスがあれば一度ビデオか何かでこの試合を見てみたいと思う。


写真 アルゼンチンの名物とも言える美しい紙吹雪がスタジアムで舞う・・・。改めて見ると本当にすごい紙吹雪だ。
写真を見ても分かるとおり、スタジアムの観客はまさに熱狂。そして大会は、開催国アルゼンチンの優勝で幕を閉じ、形の上では成功した大会となった。
しかしアルゼンチン優勝までの軌跡を見てみると、かなり怪しいものがたくさんある。この大会には16カ国が参加。4カ国ずつ4グループに分かれ、グループリーグ上位2チームの合計8チームが二次リーグに進出。
二次リーグで8チームをさらに2グループに分け、それぞれのグループの一位が決勝戦を戦い、二位のチームが3位決定戦を戦うというシステムだった。
(詳しい組み合わせなどはWikipediaのこのサイトを参照。)
二次リーグでブラジルとアルゼンチンは同じ組(グループ2)に入る。2試合終わった時点でブラジルとアルゼンチン両チームとも1勝1分。
そして迎えた3試合目。今だったら同時刻に開催される2試合だがこの時は、ブラジルの試合が終わった後にアルゼンチンの試合が組み込まれていた。アルゼンチンにとって重要な試合なだけにこういう組み合わせになった。
その二次リーグの3試合目、ブラジルはポーランドを3対1で一蹴する。その結果、アルゼンチンはペルー戦で4点差以上をつけて勝たないと決勝進出が出来ないという事になった。この時のペルーは結構いいチームだったのだが、アルゼンチンはそのペルーを6対0で一蹴。この時のペルー代表のGKのキロガという選手はアルゼンチン生まれだったりした事もあり、この結果に今でも怒っているブラジル人は結構いるらしい。この大会の頃のブラジルのスター選手だったリベリーノは、今でも怒っているらしい。
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1976年3月、アルゼンチンのペロン政権(当時の大統領はイザベル・ペロン大統領。有名なフアン・ドミンゴ・ペロン元大統領の3番目の夫人)は軍事政権のクーデターによって倒される。そして、ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が軍事評議会議長(事実上の大統領)に就任。8月には正式に大統領へと就任する。
ビデラは1976年3月の就任演説において、産業評議会(CGE)、労働評議会(CGT)への軍の介入、そしてスト権の停止を布告。さらに革命的共産党,労働社会党など五つの極左政党を禁止した。そして同年7月、ついに左翼絶滅作戦の展開が始まる。ここからアルゼンチンのいわゆるDirty Warが始まる。アルゼンチン政府の弾圧の度合いは本当にひどいものだった。1976年から83年までの間に、アルゼンチン国内の死者・行方不明者は3万人を越えると言われている。3万人のうちのほとんどが1976年から79年の間に行方不明となっている。そして1978年にワールドカップが開催されている。
この頃のアルゼンチンは、内戦状態にあったわけではない。アルゼンチンで起こったことは内戦ではなく、国の政府による国家テロだ。自国の人間を何万人も連れ去り殺していたような国でワールドカップが開かれたのだ。
ヨーロッパなどから人権侵害国家として悪いイメージが定着しつつあったアルゼンチンにおいてワールドカップの成功はイメージ回復のためにも、軍事政権の至上命題だった。アルゼンチン政府はこの大会の成功のために全力を挙げた。結果、マリオ・ケンペスやオズワルド・アルディレスなどの活躍によりアルゼンチンが優勝。人権侵害の甚だしい政府のもとで開かれたこの大会は形の上で成功を収めた。
1978年のワールドカップが開かれたとき、左派勢力はこの大会を通じてアルゼンチン政府の愚行を世界に気付いてもらおうとした。しかし、そのアピール行動も風前の灯火。アルゼンチンの人権弾圧政権はこの後、さらに5年間続く事になる。
Night of the Pencils(Noche de los Lapices)という映画があって、この映画はこの時代のアルゼンチンを舞台として描かれている。この時代のアルゼンチン情勢を理解する上で非常にいい映画だと思う。
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1978年大会、決勝はアルゼンチン対オランダ。
ホスト国アルゼンチンが前回大会準優勝のオランダを迎え撃つという戦いになった。オランダは、クライフがビデラ軍事政権に対する抗議のため大会参加を拒否。(実のところは、1974年のワールドカップ決勝で敗れたクライフはもう二度と決勝での負けを味わいたくなかったらしいという説もある。)何はともあれ、このときのクライフは、女王陛下からの出場嘆願も振り切ったという有名な話まである。
大会前からアルゼンチンの軍事態勢に批判の意を表明していたオランダ。
決勝での対決に注目が集まった。
宿泊ホテルの電話が深夜まで鳴り止まないなどの、オランダに対しての嫌がらせによる妨害が行われたという説もある。さらに、アルゼンチン選手団はなんと決勝の開始予定時刻に堂々と遅刻をした。オランダの選手はフィールドの上で何十分と待ちぼうけを食った。
こんな妨害行為などにもめげずにオランダはアルゼンチンにくらいつく。ケンペスの先制ゴールを奪われるものの、終了間際にヘディングで同点に追いつく。延長で力尽きたものの、ホスト国相手に堂々わたりあった戦いだったといわれている。チャンスがあれば一度ビデオか何かでこの試合を見てみたいと思う。

ドミニカ日本人移住50周年記念祭で、壇上から降り移住者に深々と頭を下げ謝罪する尾辻秀久首相特使=サントドミンゴのホテルで29日午前11時43分、庭田学写す