2006年10月

なんとなく矛盾

最近更新頻度が落ちてきました。
10日ぶりの更新になります。

前からブログに書こうと思っていた事でもあるし、先日飲みの席でも僕が話題に上げたトピック。

先日ちょっと喫茶店に座っていた時、隣の席に二人の女性が座っていた。
「あの○○って人、挨拶もまともに出来なくてすごく嫌な感じ!!」
これって日本語でよく使われる表現だ。日本語では他にも「××高校の~~選手は挨拶もしっかり出来て素晴らしい。」みたいな表現もよく耳にする。

上記の挨拶に関する言葉は、すごくよく分かるし、挨拶が大事なのはもう否定のしようがない。

しかし、しかしだ。

日本人ってそもそもあまり他人に対する挨拶があまり好きじゃない。だから、近所や道端で見知らぬ人に微笑みかけることは全く重要じゃないし、日本ではむしろそんな事をするべきではない。

アメリカ人や南米人などから見ると、日本人はコミュニケーションが下手に思えるらしい。見知らぬ人との道端でのコミュニケーション、バスの運ちゃんとのおしゃべり、スーパーの店員との会話・・・・そういうものが日本には全くと言っていいほどないからだ。

そんな風に、挨拶をあまりしない民族なのに「挨拶」という話題がやたら取り上げられる事と、それが出来るか出来ないかというという理由から人を持ち上げたり否定したりしようとするのってなんだか矛盾だなぁと少し思った。

日本と違って西洋の人々は概して挨拶が好きだと思う。ハローとかの挨拶や、他人に対する微笑とかそういう類の挨拶って、西洋社会の方が圧倒的に多いのだ。

そんな風に、日本人よりも挨拶が好きな西洋の人々。しかしながら「彼はきちんと挨拶の出来る人間だ」なんて表現をアメリカ人が使うことなんて皆無だ。そんな事を誰かに言ったとしても、それを聞いたアメリカ人は「???」という反応しか出来ないと思う。

挨拶はあまりしないのに、挨拶のことをよく話題に上げる日本人。そして挨拶が好きで必要以上に他人に向かって挨拶をするのに、挨拶が出来るとか出来ないとかそういう話題に関してあまり喋らない西洋人。
これってちょっと不思議な矛盾だと思った。

思うに、日本における「挨拶」という言葉の意味は単に「礼儀正しさ」であると思う。誰にでも陽気に挨拶をする人間は、日本において「挨拶」のできる人間とは思われないのだ。

なんだかいろいろとぼやいていますが結論を言ってしまうと、礼儀正しい挨拶も笑顔を振りまくような挨拶も、両方出来るのが個人的に言ってしまえば理想だと思います。

1978アルゼンチン―Dirty Warと共に

1978年ワールドカップアルゼンチン大会

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写真 アルゼンチンの名物とも言える美しい紙吹雪がスタジアムで舞う・・・。改めて見ると本当にすごい紙吹雪だ。

写真を見ても分かるとおり、スタジアムの観客はまさに熱狂。そして大会は、開催国アルゼンチンの優勝で幕を閉じ、形の上では成功した大会となった。

しかしアルゼンチン優勝までの軌跡を見てみると、かなり怪しいものがたくさんある。この大会には16カ国が参加。4カ国ずつ4グループに分かれ、グループリーグ上位2チームの合計8チームが二次リーグに進出。
二次リーグで8チームをさらに2グループに分け、それぞれのグループの一位が決勝戦を戦い、二位のチームが3位決定戦を戦うというシステムだった。
(詳しい組み合わせなどはWikipediaのこのサイトを参照。)

二次リーグでブラジルとアルゼンチンは同じ組(グループ2)に入る。2試合終わった時点でブラジルとアルゼンチン両チームとも1勝1分。

そして迎えた3試合目。今だったら同時刻に開催される2試合だがこの時は、ブラジルの試合が終わった後にアルゼンチンの試合が組み込まれていた。アルゼンチンにとって重要な試合なだけにこういう組み合わせになった。

その二次リーグの3試合目、ブラジルはポーランドを3対1で一蹴する。その結果、アルゼンチンはペルー戦で4点差以上をつけて勝たないと決勝進出が出来ないという事になった。この時のペルーは結構いいチームだったのだが、アルゼンチンはそのペルーを6対0で一蹴。この時のペルー代表のGKのキロガという選手はアルゼンチン生まれだったりした事もあり、この結果に今でも怒っているブラジル人は結構いるらしい。この大会の頃のブラジルのスター選手だったリベリーノは、今でも怒っているらしい。
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1976年3月、アルゼンチンのペロン政権(当時の大統領はイザベル・ペロン大統領。有名なフアン・ドミンゴ・ペロン元大統領の3番目の夫人)は軍事政権のクーデターによって倒される。そして、ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が軍事評議会議長(事実上の大統領)に就任。8月には正式に大統領へと就任する。

ビデラは1976年3月の就任演説において、産業評議会(CGE)、労働評議会(CGT)への軍の介入、そしてスト権の停止を布告。さらに革命的共産党,労働社会党など五つの極左政党を禁止した。そして同年7月、ついに左翼絶滅作戦の展開が始まる。ここからアルゼンチンのいわゆるDirty Warが始まる。アルゼンチン政府の弾圧の度合いは本当にひどいものだった。1976年から83年までの間に、アルゼンチン国内の死者・行方不明者は3万人を越えると言われている。3万人のうちのほとんどが1976年から79年の間に行方不明となっている。そして1978年にワールドカップが開催されている。

この頃のアルゼンチンは、内戦状態にあったわけではない。アルゼンチンで起こったことは内戦ではなく、国の政府による国家テロだ。自国の人間を何万人も連れ去り殺していたような国でワールドカップが開かれたのだ。

ヨーロッパなどから人権侵害国家として悪いイメージが定着しつつあったアルゼンチンにおいてワールドカップの成功はイメージ回復のためにも、軍事政権の至上命題だった。アルゼンチン政府はこの大会の成功のために全力を挙げた。結果、マリオ・ケンペスやオズワルド・アルディレスなどの活躍によりアルゼンチンが優勝。人権侵害の甚だしい政府のもとで開かれたこの大会は形の上で成功を収めた。

1978年のワールドカップが開かれたとき、左派勢力はこの大会を通じてアルゼンチン政府の愚行を世界に気付いてもらおうとした。しかし、そのアピール行動も風前の灯火。アルゼンチンの人権弾圧政権はこの後、さらに5年間続く事になる。

Night of the Pencils(Noche de los Lapices)という映画があって、この映画はこの時代のアルゼンチンを舞台として描かれている。この時代のアルゼンチン情勢を理解する上で非常にいい映画だと思う。

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1978年大会、決勝はアルゼンチン対オランダ。

ホスト国アルゼンチンが前回大会準優勝のオランダを迎え撃つという戦いになった。オランダは、クライフがビデラ軍事政権に対する抗議のため大会参加を拒否。(実のところは、1974年のワールドカップ決勝で敗れたクライフはもう二度と決勝での負けを味わいたくなかったらしいという説もある。)何はともあれ、このときのクライフは、女王陛下からの出場嘆願も振り切ったという有名な話まである。

大会前からアルゼンチンの軍事態勢に批判の意を表明していたオランダ。
決勝での対決に注目が集まった。

宿泊ホテルの電話が深夜まで鳴り止まないなどの、オランダに対しての嫌がらせによる妨害が行われたという説もある。さらに、アルゼンチン選手団はなんと決勝の開始予定時刻に堂々と遅刻をした。オランダの選手はフィールドの上で何十分と待ちぼうけを食った。

こんな妨害行為などにもめげずにオランダはアルゼンチンにくらいつく。ケンペスの先制ゴールを奪われるものの、終了間際にヘディングで同点に追いつく。延長で力尽きたものの、ホスト国相手に堂々わたりあった戦いだったといわれている。チャンスがあれば一度ビデオか何かでこの試合を見てみたいと思う。

ラテンアメリカ オリンピックと平和

今日は、体育の日なのでオリンピックなどについて。

皆さんの中で「オリンピック」の定義は何ですか?
「スポーツの祭典」
「平和の祭典」
「国威発揚のためのイベント」
などなどいろいろな意見がある事だと思う。

そして皆さんの中でのサッカーのワールドカップの定義とは何でしょう?
「オリンピックを上回る規模の大会」
「世界中が熱狂する大会」
などなど、これもまたいろんな意見があると思う。

オリンピックやワールドカップなどの見方や定義の仕方は人それぞれだろうけれど、我々の認識としてある程度共通しているものは、「オリンピックやワールドカップと言った大規模なイベントは、紛争などのない平和な地域で行われるもの」というアイディアがあるのではないでしょうか。

しかし、これらの大会が全く平和じゃない地域で開かれたという事だって、実は結構あるのだ。多少の政治的・経済的混乱のある国とかではない。それこそ内戦、暴動、抑圧、虐待などによって人がバッタバッタと死んでいっているその真っ只中でオリンピックが開かれたりした歴史が1960年以降にだってあるのだ。

さてここで問題。それはどこの国で開かれた大会でしょう?

答えは・・・

1968年 メキシコオリンピック
1978年 ワールドカップアルゼンチン大会


この二つだ。
では具体的にメキシコで、そしてアルゼンチンではどんな出来事があったのだろうか。今回はそのことについて。
長くなるので、今回はメキシコオリンピックに関して書いて、次回はワールドカップアルゼンチン大会について書きます。

(オリンピック史上最大の悲劇とも言われるあまりにも有名な1972年のミュンヘンオリンピック事件については、大会期間中に起こったテロであり、「元々平和でない国で開かれたオリンピック」という今回の記事の趣旨に合わないので、今回は割愛します。リンクと映画『ミュンヘン』などを参照されたい。)


まずは1968年メキシコ。

10月12日に開幕するメキシコ五輪に先立ち、10月2日にメキシコ市のトラテロルコ地区にある三文化広場(La Plaza de las Tres Culturas)で事件が起こる。アステカ時代に市場として栄えたこの場所での事件はあまりにも凄惨なものだった。いわゆるトラテロルコ事件だ。

簡単に言ってしまえば、ここで開かれていたきわめて平和的な学生集会を、軍が襲撃したのだ。当局の発表では犠牲者の数は30人未満だったが、本当は500人ほどが死んだのではないかと言われている。
(この事件につながるまでのメキシコの歴史などを語りだすとキリがないので今回はそれは割愛させていただくことにする。)

トラテロルコの夜という本に詳しい記述が書いてある。序文は、1990年にノーベル文学賞を受賞したオクタビオ・パス(Octavio Paz)によって書かれている。

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また、この本のバックカバーにあるオクタビオ・パスの言葉を引用する。

1968年の学生運動と、それを突如として終わらせた、政府による凄惨な弾圧――トラテロルコ事件――は、メキシコの人々を深く動揺させた。その結果生じた政治的、社会的、倫理的危機はいまだに解かれてはいない。(注:これは今から10年以上前に書かれた文章であることを付記しておく)

オクタビオ・パスの見解などは藤原書店のこのページに結構詳しく書かれている。

38年も前に起きたこの事件のことで今のメキシコ政府を非難するつもりなどまったくないし、IOCのオリンピック開催地の選考過程などにケチをつける気も全然ない。だけど、オリンピックの直前にこんな事件があったということは知っておいてもいい事実だと思うのだ。オリンピック開幕のたった10日前にこんな事件が起こっているのだ。自国民をバタバタ殺すような政府のもとでオリンピックが開かれたというこの事実は、日本ではあまり知られていない事だが、決して知っておいて損はないと思う。

「トラテロルコの夜」の中からいくつか印象的なものを引用してみる。

残忍、野卑、憎悪、ありとあらゆる悪意に満ちた行動に支配されてしまった、トラテロルコのあの夜。あのときの驚愕と憤怒を正しく記録にとどめておく必要がある。
フランシスコ・マルティネス=デラベガ「我々の国はどこへ向かうのか」
『エル・ディア』紙 1968年10月8日

オリンピックを開催できるようにと学生が殺されているのなら、オリンピックなど行われない方がましだ。どんなオリンピックも、歴代のオリンピックを合わせても、学生一人の命には値しないのだから。
イタリア人陸上競技選手(第19回オリンピック大会イタリア代表選手メンバー)『オバシネス』紙、1968年10月3日

何もかも丹精こめて準備がなされた。巨額のお金が使われた。どんな細部も手抜きされることはなかった。各競技の入場券にも趣味のよさが光っている。案内板、パンフレットやプログラム、ポスター、エスコート役のスーツや広告、果ては風船に至るまでのでデザイン。各協議の実施時間の厳密さ、絶妙の運営組織、だからこそ残念でならないんです。第19回オリンピックが血に染まっていることが無念でなりません。
ベアトリス・コジェ=コルクエラ
(グラフィック・アート専門家・図案デザイナー)

映像は人を欺けないと思います・・・・私はニュース報道も写真も見ました・・・・
オクタビオ・パス

みんな死骸ですぜ・・・・
『エル・ディア紙記者、ホセ=アントニオ・デルカンポに対する、ある兵士の呟き

1964年の東京の次に開かれたメキシコオリンピック。
日本では1968年のオリンピックと言えばサッカーでの銅メダル、マラソンの君原健二の銀メダル、加藤沢男などが体操ニッポンのちからを見せ付けた男子体操などが語り継がれている。

その大会の直前にあったトラテロルコ事件。単なるウンチクとしてではなく、我々が知っておくべき事件の一つなのではないかと思う。

Green Bay Packers

火曜日の深夜、BS1でアメリカンフットボールの試合を見た。
カードはGreen Bay PackersPhiladelphia Eaglesの試合。全米が注目するModay Night Footballだ。フットボールの試合は普通日曜日に行われるが、一試合だけは月曜日の夜に行われる。それがMonday Night Footballだ。

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(Green Bay Packers running back Noah Herron (23) runs over Philadelphia Eagles safety Michael Lewis (32) in the second quarter of their football game Monday, Oct. 2, 2006, in Philadelphia.) (AP Photo/Rusty Kennedy)


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(Green Bay Packers tackle Corey Williams (99) misses a scrambling Philadelphia Eagles quarterback Donovan McNabb in the third quarter of their football game Monday, Oct. 2, 2006, in Philadelphia. McNabb ran for two touchdowns and threw for a pair, leading the Philadelphia Eagles to a 31-9 victory over the Green Bay Packers on Monday night.)

フットボールは基本ルールしかわからないし、あまりエキサイティングなものとして見たことはない。そんな、めったにフットボールなんか見ない僕がなぜわざわざ深夜にこの試合を観戦したのかというと、パッカーズというチームが好きだから。加えて、日本でパッカーズの試合が放送されることなんぞ、年に一度あるかないかだから。

アメリカに初めてわたったときGreen Bayの隣にあるDe Pere(ディピア)という小さな町で語学学校に2ヶ月ほどだけ通ったことがある。基本的に東京育ちの僕にとって、ウィスコンシン州のその町は果てしなくド田舎なところだった。ディピアに着いてすぐにグリーンベイ観光案内の小冊子を渡されたのだが、ドでかいスタジアムの写真を見て、「こんなスタジアムがここにあるなんて嘘に決まってる!」とY氏などとしゃべったりしたものだった。田舎にスタジアムがあるくらいならまだ信じられるのだけれど、スタジアムの創造なんぞまったくつかないくらい、物凄くのどかなところだけに本当に信じられなかった。
(下の二枚がスタジアムの写真。上の写真は改築前。下は2003年に改築された後のもの。日本じゃ絶対にあり得ない、広大な駐車場に注目!!)


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さて、BS1の放送は英語にしたり日本語にしたりしながら見ていたのだけど、日本語で聞いているときに解説者がグリーンベイという町について語りだした。その解説者が何を言ったかというと・・・・・
(以下、覚えている範囲で引用)

グリーンベイって言うのはねぇ、本当に片田舎ですよ。あの~青森の方には失礼なんですが、グリーンベイというのは本当に青森のはずれのような町なんですよ。いや、本当に青森の方には失礼なんですけれどね。パッカーズは昔から人気がありますけれどね。そんな片田舎のフットボールチームの人気を支えているのはやっぱりファーヴ(パッカーズの名クオーターバック)ですよ。

僕がグリーンベイに滞在した期間は短かったけれど、グリーンベイに滞在中に僕はパッカーズが興味を持つようになった。僕のアメリカの生活が始まった小さな町。そんな町のシンボルであるパッカーズというチーム。熱狂的なファンというわけではないけれど、やはりテレビで見ると応援せずにはいられない。一度惚れた女に対するような感情でしょうか。

僕が住んでいたボストンとニューヨークにもフットボールのチームはある。ボストンの近郊には2002,2004,2005年のスーパーボールを制したNew England Patriotsというすばらしいチームがあったし、ニューヨークにはNew York Jets と New York Giantsというチームがある。
この中でペイトリオッツは結構好きではあるけれど、やはり僕はパッカーズというチームの方が常に気になる。

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(写真は、2002年2月にペイトリオッツがスーパーボールを初めて制した次の日Boston Globeの一面。ペイトリオッツの本拠地のマサチューセッツ州で発行されている新聞だけあって、見出しも記事も歓喜に満ちた内容になっている。)

そのパッカーズを代表する選手はなんと言ってもQB(クオーターバック)のBrett Favre(ブレット・ファーヴ)だ。ここまでに225試合連続先発出場。年間16試合しかない上、に常に怪我が付きまとうフットボールというスポーツにおいてのこの記録はまさに驚異的だ。Jリーグや世界のプロサッカーリーグでも毎年全試合出場を重ねる選手などの話は聞いたことがない。15年にわたって連続試合先発出場記録を重ねるファーヴの記録は、MLBのCal Ripken の2632試合連続出場(足掛け17年)、日本のプロ野球の衣笠祥雄の2215試合連続出場(足掛け18年)などを超えるレベルの記録といってもいいのではないかと思う。
このファーヴという選手は、アメリカのスポーツ界において生きる伝説の一人なのだ。

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そんなファーヴを要する、グリーンベイパッカーズというチーム。
興味をもたれた方はぜひ応援しましょう。
そしてすでにファンの方は末永くファンでいましょう。

スペイン語入門

たまにはスペイン語についてなど。

スペイン語は英語よりも覚えるべき基本事項が多いと思う。
基本単語にも微妙な違いが存在したりしていてそこが煩わしくもあり面白くもある。今日はその基本単語について。

Amigo(アミーゴ)Amiga(アミーガ) 

両方とも英語で言えばFriend. しかし前者のAmigoは男友達でありAmigaは女友達。日本語で「友達と出かけてくるよ」と言ったときにスペイン語ではその時点でその友達が男なのか女なのかはっきりしている。恋人に友達と出かけてくるといわれてそれが男なのか女なのか気になるけれども聞く勇気がないあなたにとってスペイン語はとても便利な言語です。

Saber(サベール)とConocer(コノセール)という二つの動詞

英語に訳してしまうと両方ともKnow(知っている)という意味になる。だけどこの二つの単語はスペイン語において決して同義語じゃない。

saberは知識として知っているときのKnowである。
Do you know where the station is?(駅はどこか知っていますか?)
I know that he is the President's son.(彼は大統領の息子だと言うことを私は知っている。)

conocerは「(人や場所などに)なじみがあって知っている。」
I know Emilio.(エミリオのことを知っているよ。)

さらにこの動詞の後にたとえばTokioという地名をつける。
英語に直訳してしまえば
I know Tokyo.(東京を知っている)となってしまうけれどそれは翻って「東京に行ったことがある」という意味にネる。

初めてこの単語を習ったときに、Conocerというのは「肉体的に知っているという意味です」と教えられたので僕は「スペイン語というのはその人と肉体関係があるかないかまで動詞一つではっきりさせるのだなぁ笑い なんて便利な言語なんだろうウインク」* と本気で考えたことがある。
肉体的に知っているというのはある意味間違った説明ではないけれど、要するにその人や場所になじみがあって知っているということだと気づいたのはしばらく後になってからでした。

Ser(セール)とEstar(エスタール)という二つの動詞

英語に訳すのなら二つともBe動詞。「AはBです。」という言い回しをこの二つの動詞によってすることが出来る。だけどこの二つの動詞にも決定的な違いがある。

Serという動詞は「AはBです」という言い回しをする時、Bが名詞である場合に使う。またBが形容詞であった場合でもAの元来の特徴や性質を現すときに使う動詞。たとえば
Mike is a professor.
Mike is smart.
His school is big.
という感じ。

それにたいしてEstarはBがAの状態であるときにだけ使われる。
Hi is tired.
That store is closed.

英語で言えば全部 is なのだけれどスペイン語にはちゃんと使い分けがある。

さらに日本語で「AはBです。」といったときの「です」という部分は英語にもスペイン語にも見当たらない。「です」というのは他の多くの言語に翻訳不可能なのだ。

こういう事を勉強したりすると、言語というものの持つ無限の可能性に驚嘆せずにはいられなくなってくる。ことばってやっぱり面白いと思う。

*印をつけたところ(肉体的にどうこうという話)は冗談です。本気でそんなことを考えたりはしませんでした。でもそんなことを想像したのは事実です。
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